乳頭温泉郷への道は、思っていたより長かった。
秋田駅から田沢湖線で田沢湖駅へ約50分。そこからバスで40分、「アルパこまくさ」というバス停で降り、さらに乳頭温泉郷行きの路線バスに乗り換えて約20分。ようやく「鶴の湯温泉」バス停に着いた時には、東京を出てから約5時間が経っていた。
でも、バスを降りた瞬間に全ての疲労が消えた。
林の中に突然広がった、時代がかった景観——茅葺き屋根の連なる宿の建物、白い湯けむり、硫黄の匂い、そして静寂。それだけで「来てよかった」と確信できた。
鶴の湯の歴史と泉質
鶴の湯は、江戸時代の1638年に秋田藩主の湯治場として開かれたと伝えられる。現在の茅葺き建物の一部は当時の雰囲気を色濃く残しており、「日本の秘湯を守る会」会員宿でもある。
泉質は単純硫黄泉・含硫黄ナトリウム塩化物炭酸水素塩泉の混合。源泉が4本あり、それぞれ異なる成分と温度を持つ。混合されたお湯は乳白色——いわゆる「白濁の湯」だ。硫黄の独特な香りが立ち込め、温泉に来たという感覚を全身で受け取れる。
日帰り入浴の方法
日帰り入浴は午前10時から午後3時まで(最終受付午後2時30分)。料金は600円。受付は宿の玄関で行われ、入浴券をもらって浴場へ向かう。
浴場は「黒湯」「白湯」「露天」の3種類がある。露天風呂は混浴で、男性用と女性専用の時間帯に分かれているわけではなく、常時混浴の形式だ。女性には「女性専用の内湯」が別途用意されているので、混浴に抵抗のある方はそちらを利用できる。
露天風呂に向かうと、池のように広い湯船が目に入った。縁に苔が生え、そこに白濁の湯が満ちている。湯の温度は41℃前後で、長く浸かっていられるちょうどよさだ。周囲には木々が迫り、その隙間から空が見える。10月末の乳頭は紅葉の盛りで、赤と黄色に染まった木の葉が時々湯面に落ちてきた。
「これが日本の温泉の原型なのかもしれない。素朴で、飾り気がなく、ただ良い湯がある」
内湯の「黒湯」は、成分が異なり若干黒みがかった湯が入っている。露天とは違うミネラル感があり、肌にじんとくる感触だ。「白湯」は透明に近い湯で、成分が穏やかで入りやすい。短い日帰りの時間の中で、3種類の湯を楽しめたことは贅沢な体験だった。
「鶴の湯」で昼食を
日帰り入浴のついでに、食事処での昼食もいただいた。温泉粥と山菜の小鉢が数品、そして漬物。まるで昭和の湯治宿の食事そのままだ。素朴だが、しっかりと体が喜ぶ滋養のある食事だった。
隣の席の老夫婦が「今年で20回目の訪問」と話していた。毎年来るたびに少しずつ設備は変わるが、湯の質だけは変わらないのだと言う。そういう温泉との長い付き合い方が、日本の温泉文化の豊かさを体現していると思った。
アクセスの難しさと、それを超える価値
東京からの日帰りは、正直かなりハードだ。往路だけで5時間、復路も同じくらいかかる。乳頭温泉郷での実質的な滞在時間は3〜4時間程度になってしまう。新幹線のグリーン車を使えば疲労は抑えられるが、費用もかさむ。
それでも「一度は行くべき場所」だと確信している。温泉地の「格」というものがあるとすれば、鶴の湯はその最上位の一角にある。白濁の湯と茅葺きの景観、秋田の山深い静寂——これらが揃ってはじめて、鶴の湯は鶴の湯になる。
できれば一泊して、翌朝の朝靄の中で露天に入るのが理想だ。それがかなわないなら、次善の策として日帰りでも価値は十分にある。ただし、行くなら早起きすることを強くすすめる。